ボールを待ちながら ———飯川雄大個展「ひとりはみんなのために」

Takehiro Iikawa Exhibition
Hotel Anteroom Kyoto, Gallery 9.5
May 13 - July 3, 2016



飯川雄大は6歳でサッカーを始めてから、今日まで一時たりともサッカーを忘れたことはない。今でも最低週2回の練習を欠かさないばかりか、毎日ドリブルで通勤するというほどの熱の入れようだ。しかし、そんな自他ともに認めるサッカー野郎の彼の中には、もう一人の飯川、つまり美術作家の飯川雄大が潜んでいることを忘れてはならない。ユニホームを身に着け、サッカーシューズを履き、フィールドの外に設置した望遠カメラのファインダーからグラウンドを望む。軽快なボールの動きでも華麗なテクニックでもなく、何の変哲もない光景に向かって、ビデオカメラを回し続けるのだ。周囲のプレイヤーたちは、同じコートに立つサッカー仲間が、遠方からカメラで何を狙っているのか、まして自身の姿が美術作品として展示空間に現れていることなど、知る由もない。マラドーナの悪名高き「神の手」ゴールさながら、密かに彼らの姿を捉えるのも神の手の仕業だと言って退けるのだろうか。しかし、飯川の作品に映るプレイヤーたちは、そんなことお構いなしだとでも言わんばかりに、甘い表情と優美な佇まいで私たちの視線を釘付けにする。
アンテルーム京都で開催された飯川の個展「ひとりはみんなのために」は、3つの映像と写真作品で構成されている。これらの作品に登場するのは、ボールが回ってくることのないプレイヤーたちばかり。一般的なサッカー映像につきもののアナウンサーの高揚した声はもちろん、リピートやスローモーションのような効果も使われていない。至ってシンプルなサウンドと映像技法によって特別な展開なく淡々と進むシーンが映し出され、メディアが煽り立てる熱狂や感動はすっかり削ぎ落とされている。「控え選手の金子さん」は、コートの脇で一人リフティングを続けるプレイヤーを撮影した映像を3つのコマに分解し、それらを垂直に配置した映像作品だ。自ら万年控えのポジションを選んでいるというこのプレイヤーが、一人孤独に反復運動にいそしむ姿は、チームにありながら、その一員となることを拒もうとする二つの相反する状態を呈している。「ネクストファイヤー」においても同様に、控え選手たちが被写体となっているのだが、そこには来るべき出番を待ち構える張りつめた空気はなく、ビブスに濃色太線で記された背番号が、魂の抜け落ちた殻のように選手たちの身体から浮かび上がり、グラフィックの要素として画面に緊張感を作り出している。これらの作品で飯川は、団結のためのスローガン「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」に疑問符を付けるのだ。
「ハイライトシーン」に登場するゴールキーパーたちは、ゴールの守衛というチームの任務に忠実であろうとしながらも、自分の手を覗き込んだり、地面に座り込んだり、ボールから意識が遠ざかるのを止められない。本シリーズは年齢や国籍を問わず、複数の都市でゴールキーパーを被写体に制作されてきた。そのスチル写真のシリーズ「ウィニングポジション」も合わせてここに展示されている。両手で優しくポストを握りキスをするかのように目を瞑る男、腰に手を添え眩しい笑顔を見せる太鼓腹の男。ゴールの前で一人時間を過ごす選手たちの寛いだ身体は、バランスのとれた非相称性で画面に絶妙なコンポジションを作り上げている。さらに飯川は、これらの被写体の容姿から一人勝手にアイデンティティを妄想し、そのイメージに類似する実在のプロ選手の名前や国籍、所属チームを引用して、写真と作為的に組み合わせた架空のトレーディングカードまでも制作している。民族、性、年齢を越えた平等な世界―スポーツが掲げる倫理観を意図も簡単に裏切ってみせるのだ。
多様な形態で現れるおかしみに満ちたプレイヤーたちの肖像は、飯川の直感と編集精神の賜物だ。長い時間をかけて取りためた映像から特定の瞬間を選り抜き、つなぎあわせ、テキストやデザインを施し、タイトルをつける。この編集作業は、映像の中や平面上に留まらず、空間のレイアウトへと展開する。本展では大小様々なプロジェクションやモニターを組み合わせることで、物質的に質感の異なる映像を混在させ、また異なるアイレベルを設定することで「観る」という行為を身体的体験へと変容する。そこに発見されるのは、複数の孤独な時間、すなわち、試合終了に向かって持続する時間から断ち切られた、尺度にしたがわない時間だ。ユニークな時間論を展開したフランスの哲学者、ガストン・バシュラールはこの孤立した時間を、水平的に過ぎ去る普通一般の時間に垂直に切り込む瞬間であると述べる。
飯川の手によって持続する時間から切り取られ、因果関係的に捉えられる時間の流れから解き放たれたプレイヤーたちは、不思議な親しみ深さでもって私たちに近寄り、忠誠と裏切り、愛と憎悪、衝動と抑制― 人の心の中には相容れない感情が同時に存在するという事実を、優しく目の前に突きつけてくる。バシュラールはいう「本質的にいって詩的瞬間とは、二つの相反するものの調和的関係である」。私たちが目撃しているのは、詩的瞬間を獲得すべく、自主トレーニングに耽るプレイヤーたちであり、自己の内面的矛盾を受け入れたいと欲する私たちは、彼らが身を置く瞬間に魅了され、孤独の中に自分を見出す勇気を手にいれるのだ。


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参考文献

ガストン・バシュラール『瞬間の直観』掛下栄一郎訳、紀伊國屋書店、1997年